A Course in Miracles Lesson111〜120

奇跡のコース(A Course in Miracles)の Lesson111〜120は、 Lesson91〜110の復習にあたる。
毎時5分から解放され、30分に1回のレッスンになり、少しだけ楽に感じるし、忘れても気づいた時にすぐにできるので、とても楽ちんで、仕事にも支障がなくハッピー。
そんななか、奇跡のコースの勉強会に出席。
一緒に受講する人たちのシェアを聞く時間があるのだが、お兄さんに対して感謝についてシェアしてくれたお仲間ちゃんのおかげで、ようやく心から兄に対して感謝の氣持ちが湧いてきて、すべては愛だということが腑におちた。
また、翌日の母の命日の日には母が霊体として夢に出てきて、そこから逃げようとしている自分を見た。
思うに、わたしにとって母は無条件の愛の象徴でもあるので、わたしは未だ、愛やホントの自己から逃げようとしているんだなーという意見に落ち着く。

A Course in Miracles Lesson106/107/108/109/110

週末は海に出ていたり仲間とのイベントが多く、まったくレッスンができない…というのが最近の悩み。かといって、平日も充分にレッスンを行えるかというと、毎時5分のレッスンは就業中はなかなか難しく、タバコを吸いに行く人を考えたら同じように休んでいるようだし大丈夫かな…とか自分を騙しながら、いつか誰かに何か言われはしないかと少しだけヒヤヒヤしながら執務室を出る。
こんなことで、上手くレッスンが進んでいるか心配ではあるけれど、この上手くできないという氣持ちもエゴの仕業なのかもしれない。
このところ、周りの人々のステキな部分がとても良く見えて、逆に自分が何も出来ない最低な人間のように思えたりもして、でも、そんな自分を客観視できたりもしているから、少しずつではあるけれど、奇跡のコースの真実がわたしの中に浸透しているのかもしれない。
Lesson106
心を鎮めて真実に耳を傾けさせてください。
Lesson107
真実は、わたしの心の中の間違いをすべて正してくれます。
Lesson108
与えることと受け取ることは本当にひとつです。
Lesson109
わたしは、神の内で安らぎます。
Lesson110
わたしは、神が創造されたままのわたしです。
土日にレッスンが充分に出来なかったと感じたので、月火でもう一度同じレッスンをやった。
特に、109、110は言葉を宣言すると、すっーと自分の内側に入っていく感覚があり、頭に浮かぶ人々に自然に感謝の氣持ちが湧いてきた。
また、毎時のレッスンをしていると、1時間があっという間に過ぎていくように感じる。
前からもそうだったけれど、このところ輪をかけて、他人に興味がなくなったようにも感じる。

A Course in Miracles・Lesson 104 / 105

Lesson 104
わたしは、本当にわたしに属するものだけを求めます。
Lesson 105
神の平和と喜びはわたしのものです。
わたしは香咲弥須子さんが書かれたガイドブックを使って奇跡のコースを学んでいて、とても判り易いのだけれど、たまに言葉が自分にしっくり来ないことがあり、そんな時には色々な方のブログなどを読んで参考にしている。不得意だけれど意外に英語のほうが、アイディアの意味を理解できたりもするので、これから徐々に奇跡のコースの本も色々読んでみようと考えている。試しに今は、ゲイリーさんの「神の使者」を読んでいて、ワークブックだけでは判らなかったことなども知ることができた。
Lesson 105にある、この幻想の世界(私たちが現実だと思っている世界)は、与える者は贈り物をあげると失い、受け取る者は与える人が失うことにより豊かになるけれど、これは罪悪感でつくられた取引だ。という言葉に今日は驚いた。確かにわたしにもそう信じているふしがある。人にプレゼントをあげるのが楽しい反面、金額を気にしたりもしているからだ。
コースでは、神からの贈り物である平和と喜びは、わたしたちが受け取るにつれ増えていくということ。そして、与えれば増えるということが書かれているけれど、昨日は、まさに、そのような体験をしたばかりで、そこにはお互いを想う完全な愛があり、アイディアがすっと心に入ってくる。
わたしが受け取ることができるように、与えることについてのわたしの見方を完全に変えることが、大切だとコースは教えてくれている。
わたしは神の喜びと平和の贈り物を完全に受け取ります。

A Course in Miracles・Lesson 102 / 103

Lesson 102
わたしは、わたしの幸福を望む神の意志を分かち合います。
Lesson 103 神は、愛なので、幸福でもあります。
ここのところのレッスンは、毎時5分間。
なかなか、その時間をとるのも難しく、特に休みの日に出かけたりすると、なかなか意識を集中させることも難しいので、充分に出来たと感じられない場合には、ひとつのレッスンに数日かけたりもしている。
この2日間は、「幸福」という言葉がキーワードだ。
じゃあ、自分の幸福とはいったい何なのだろう。
神を恐れるということは、喜びを遠ざけること…と書いてあるけれど、
わたしはどこかで、幸福になることや、愛することを恐れているのかもしれないなー
なんて、ボンヤリと想う。
だから、その恐れや痛みにとって代わるアイディアを心にとめよう、刻み込もう。
神は愛だから幸福や喜びでもあり、それは真実…だということを!

A Course in Miracles・Lesson 100 / 101

Lesson 100
わたしの役割は、神の救いの計画において、欠くことのできないものです。
Lesson 101
神がわたしに望んでいるのは、完璧な幸福です。
ほんの少しわたしを悩ませていた物事に自分の中で結論が出た。
そして、解放した。
自分の望みが本当の神の意志なのかは、まだ判らないのだけれど、今日出した結論が私の望む方向に向かえば、それは嬉しいし、違うところに向かうとしたら、それは氣づきになる。
わたしはそんな自分を赦そうと思う。

A Course in Miracles・Lesson 98 / 99

Lesson98
わたしは、神ので救いの計画におけるわたしの役割を受け入れます。
Lesson99
救いは、ここでのわたしの唯一の役割です。
昨日、今日と、このアイディアを繰り返し練習。
このところ毎時5分間のエクササイズなので、仕事中はなかなか難しいが、なるべく仕事しながら、ブツブツ呟いたり、紙に書いてみたり…時に席を外してみたり、
ここに出てくる、わたしの役割である救い=赦しって、なにを救い、赦せばよいのだろう。たぶん、頭で考えて出る答えではなく自然に導かれるものなのだろうと思いながらも、ついつい考えてしまう。
そんな中、昨日、今日と、色々な場面で現れる数字の存在に氣が付く。
「893」
仕事柄、さまざまな管理番号を使いこなしているのだけれど、末尾がこの並び、今日はたくさん見てしまった。
あと、8888、999、333
最近は、1111、444、555も良く見る 。
それで、893のエンジェルナンバーを調べてみたら
アセンデッドマスターは、あなたの美しく聖なる人生の目的をサポートするために必要なものは何でも必ずもたらしてくれます。使命に関することなら何でも彼らに助けを求め、助けを受け取ることに心を開いてください。
実践編は、
あなたはアセンデッドマスターと深いつながりをもっています。彼らは聖なる人生の目的に沿ってあなたを支援し導いてくれています。
となっている。
奇跡のコースは、キリストが本当に伝えたかったことだから、このアセンデッドマスターってキリストじゃんね。安心して学びなさい…ってことなんだね、きっと。
あと、893は、白山(はくさん)とも読めるらしく、白山といえば菊理姫。
両親の供養を頼んでいるお寺さんが白山とも繋がりがあり、前から行きたいと思いながら、まだ白山だけ行ったことがないので、ちょっと氣になってます。そろそろ登るかな…。
数字は楽しい。

A Course in Miracles・Lesson 97

1年ほど前から縁あって、両親に捧げる御線香を求めて、数ヶ月に一度浅草観音にお参りをしている。
御線香を購めると、一緒に浅草寺の小冊子もいただくのだが、それが奇跡のコースの学びにも通じていて、とても面白い。
今日は、天台宗の行法の骨格をなす「止観」についての記述を読んだ。
「止観」とは、周囲や外界から影響を受けて落ち着いていない心の動きを止めて精神を安定させ、正しい知恵によって対象を観察する実践法。
何か高度な悟りに至ってはじめて真理が顕現するのではなく、煩悩まみれのいまの現実こそ真理そのもので、何ら特別な状態ではなく、日常の自分の心そのものに向き合い、自分自身の心の働き自体をあるがままに観察することが大切であり、真理はどこにでも満ちている…とのこと。
今日の、奇跡のコースのアイデアは
「わたしはスピリットです」
この言葉を口に出した瞬間に、自分がエネルギーに満たされていくのを感じる。
すると、この後に続く、「スピリットであるわたしは…」というスピリットである状態を顕す言葉がスーッと自分の中に入ってきて、心地よく、元氣が出てきて、もっともっと、その言葉で自分を満たしたくなる。
わたしの言動、心の動き、常にこれを観ているのはスピリットであるわたし。自分自身の心が信頼できるよう、これからもワークを続けよう。

A Course in Miracles・Lesson 96

今日のアイデアは
「救いは、わたしの唯一の自己から来ます。」
朝から、この言葉を何度となく繰り返し自分に浸透させる。
会社からの帰り道、ふと、「わたしは他人の期待に応えたい」と思っているのではないかと閃いた。
でも、その思い(おもい)は、私にとって、とても重い(おもい) もので、それは真の自己からのものではないのだということが腑に落ちた。
誰かから求められるのは、とても嬉しいことではあるのだけれど、「こうすれば、みんなが喜ぶ。
こうすれば喜ばれる。」という思いにしばられている自分を見つけてしまった。
じゃ、わたしが満足することは…と、シンプルに考えたら
途端にスーッと氣持ちが軽くなった。
自分が自分を嫌いにならなければ、誰かから嫌われてもいい。
真の自己が求めるほうに進もう。
それは相手の内側の問題なのだから。
そして、わたしは自分の弱さも見てしまった。
挑戦して、上手くいかなかったり、失敗したり、挫けてしまったりするのが怖くて、程の良い理由を使って逃げようとしている。それに氣づいてしまった。
そういえば、同じようなことが過去にもあり、思い切って自分が進みたいほうを選んだ結果、みんながハッピーになったことがあったっけ!
必然と答えは出たのかもしれない。

A Course in Miracles・Lesson 95

GWは伊豆での合宿だったので、ワークも思うように進まず。それでも、少しずつ、自分のペースで学び続けてはいる。
合宿でたくさんのステキな人達と一緒にいたせいか、ジャッジをしてしまい、自分に対しての否定的な想いがどんどん膨らみ、少し苦しく感じる。
でも、今日のレッスン95を開くと、
「あなたは自分を神の創造物のこっけいな模倣品で、弱虫、意地悪、醜く、罪深く、みじめで、苦痛に悩まされていると思っていて、これらはあなた自身についてのあなたの解釈です。」と、書かれていて、今の私を見透かされているようだ。
今日は、父の命日だったので、墓参りへ。毎月墓参りをしているが、今月は母の命日もあるので2回墓参りに行くことになる。
我が家の墓石には「感謝」という文字が刻まれている。他の理由もあるが、一番は私も含め、お参りする人達が日々の感謝を忘れないようにという願いも込めて、石屋さんに彫っていただいたものだ。
今日は、墓の前でワークもしてみた。
「わたしとは、 わたしの創造主とひとつに結ばれた真の自己のことです。」
父も母も私にとっては創造主。私はこの人達の元で暮らしたくてここに産まれたんだけど、果たして、それって何のためだったんだろう?生かされているということは、まだ役目があるはずなんだよなー、じゃあ、その役目とは何なのだろう…。
この1週間で、私には決めなければならないことがあるのだけれど、自分の役割を果たせるほうに、エゴが産み出す幻想ではないほうに答えを見出せるよう、奇跡のコースのワークと共に歩んでみよう。

A Course in Miracles・Lesson 91

石鎚山/夜明かし峠

ずっと知ってはいたものの、自分には縁がないと思っていたところから
急に始める流れがあり…
4月からワークブックを頼りに学び始めた「A Course in Miracles(奇跡のコース)」
毎日、1つのレッスンを着実に続けていたものの、
この「レッスン91」からは、順調に進まない日々が続いている。
それは、旅行に行ってしまったり、疲れてしまってワークを忘れて眠ってしまったり…ということが原因ではあるのだけれど、
でも、ここで流れないということは、ここが私の問題なのかもしれないと思って、ここ数日、このレッスンに留まっていた。
だから、奇跡のコースのワークをやっていく上で気がついたことをここに書いてみようかな~なんて思いついたわけです。
レッスン91のフレーズは、「奇跡は光の中で見えます。」
(身体的)目はその光を知覚しない。
 そもそも自分は身体ではない。
 ではいったい、私は何なのだろう?
え?わたしってなになに?
目を閉じてお伺いをたててみました。
私の場合は、マナカードのマナのカードのビジョンが浮かんだ。
「すべてのものに宿る生命力」つまり、光そのものか…。
本来は自分は弱いものではなく、強いものであるはずなのに。
弱い自分にとどまっていたがっているのかも。
その反面、自分が弱いということを誰にも悟られまいと生きていたことも判った。
私は常々「人の気持ちに疎い」と自分のことを感じていたのだけれど…
実は「私はとても人の氣持ちに敏感」なのだということにに気が付いた。
それは家庭環境などもかなり強く影響しているとも感じた。
「過剰に反応したり、ネガティブなものにひきづられるのが怖くて、人との距離を縮めまいと頑張っていた」
今日は、そんな自分に氣がつき、目からウロコが何枚も剥がれ落ちた。
さあ、今夜も最後のワークをやってから眠ろう。